何もしない休日に不安を感じる必要はない

f:id:yu-zu_ki:20200528212054j:plain 待ちに待った休日。
大半を睡眠に使ってしまったり、何するわけでもなく時間が過ぎてしまったりしてあっという間にその日が終わってしまうことがあります。
明日からまた仕事なのに、何もできずに終わったと後悔することってないですか?

私はその状況にとても罪悪感を感じることがあったんです。
自分としては休日に睡眠をとることは重要なこととしてやっているし、ボーっと過ごす時間も大切なのですが、なぜか不安な気持ちになってしまうんですよね。
こんな過ごし方でよかったのだろうかと。
「休日を充実させる=外出する、何かする」という考え方なんですよ。 でも本当にそれだけが充実した休みの過ごし方なのだろうかと考えるようになりました。 つまり私は今後のためにも家でゴロゴロして過ごす休みを充実していないなんて感じないように正当化したいんです。


休日と充実

「充実」を辞書で調べると「足りない点や欠陥がなく、十分に備わっていること。内容が豊富であること。」と書かれていました。
たとえば、休日にお昼寝する、散歩する、本を読む、テレビを見る、空を眺めながらボーっとするという過ごし方をしたとします。
お昼寝「してる」散歩「してる」本「読んでる」テレビ「見てる」空「眺めてる」ボーっと「してる」ので何もしていというわけではないんですよ。(無理やりすぎですかね!?) ただ、これを充実と言えるかどうかが人によって違うんですよね。
一般的に捉えるとやはり足りない気がしてしまいます。
家で過ごすにしてもたとえば、手の込んだ料理やお菓子を作るとか大掃除するとかガーデニングするなら充実してると言えると思います。

充実している、していないの差って何?

f:id:yu-zu_ki:20200528213117j:plain では何かしているのに充実している、していないの違いは何でしょう?
それは、休み明けに友達や同僚に「昨日何してたの?」と聞かれたときに「何もしてないよ」と答えるか「○○したよ」と答えるかどうかの違いではないでしょうか。
何もしていないと言えば、その話題はそれで終わります。
そして、相手が「昨日は~」と話しだした時、自分が言葉にできなかったものが相手にはあることに不安を感じてしまうのではないでしょうか。
でもこれって本来は自分に重きを置いて考えることが大事だと思うんです。
心の満たされ方は人によって違いますよね。
寝て頭がすっきりした、散歩して季節を感じた、読みたかった本をやっと読めたなど自分が満たされた時間を送ったかどうかが重要で、相手を基準にして考えるから不安になったり、罪悪感を感じたりしている気がします。

まとめ

みんなが認めるような「充実した休日」を過ごそうとすれば、多少無理をしなければならないかもしれません。
話題になるような休日を過ごそうとするわけですから。
でも、無理をしていたら自分にとっての充実にはなりません。
体を休める、心を休める方法は人によって違うと割り切り自分にとっての充実を求めれば、どのような過ごし方をしたとしても不安に感じることはなくなるのではないでしょうか。
「昨日何してたの?」と聞かれたら「体と心を休めることに集中してたよ」と答えればいいのです。
相手が「○○してたよ」と話し出したら、この人にとって自分を満たすということはこういうことをすることなんだなと素直に聞けばいいのです。
比べる必要はないのですから。
人と比べなければ休日に何をしていようと充実してるかしていないかはすべて自分の判断になります。
自分で今日は時間を無駄にしてしまったなどと後悔した日以外はすべて充実になるのだと思います。